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ESSAY エッセー

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第10回  30年目の冬に 2025.02.21

阪神・淡路大震災から30年という周年にちなみ、先月に続き、神戸で被災した際の記憶をたどる。ちょうど30年前の今頃に体験した出来事について記す。

1959年の伊勢湾台風から1995年の阪神・淡路大震災まで日本では死者が5000人を超す自然災害はなかった。つまり私たちは半世紀近く激甚な災害を体験することのない比較的平穏な時代を送った。しかしこの震災以来、日本列島は再び地震の活動期に入り、2011年の東日本大震災とそれ以前以後、多くの震災に見舞われていることは知られているとおりだ。まもなく到来するであろう南海トラフ地震に備えて当時の記憶を言葉として留めておくことに一定の意味はあるだろう。

 震災直後、施設としての美術館は壊滅し、作品はとりあえず収蔵庫に撤収したものの展示のめども立たず、無力感に立ちすくんでいた私たち、兵庫県立近代美術館の学芸員が驚いたのはレスキューの素早さであった。最初に動いたのは全国美術館会議であった。最初、関東の主要美術館館長の懇親会として始まったというこの組織について、私はそれまでよく知らなかった。もちろん兵庫県立近代美術館も加盟しており、奇しくも震災の前年の8月4日、美術館に隣接する王子動物園のホールを会場として開かれた学芸員研修会「障害者と美術館」においては、以前このコラムでも紹介した「美術の中のかたち」について私自身が事例発表を行った覚えがある。このような研修を一つの目的とした美術館の横断的な組織であることは知っていたが、私にとっては抽象的で遠い存在であった。

しかし当時の記録を確認するならば、地震が発生すると直ちに当時事務局が置かれていたブリヂストン美術館の学芸を中心に被害状況の把握や救援体制の整備が始められ、震災から5日後には西宮市大谷記念美術館、翌日には兵庫県立近代美術館に調査のために関係者が入っていたことがわかる。さらに驚くべきことにはこの組織を窓口として、はるかアメリカからも救援協力の申し出が伝えられていた。震災の翌日にロスアンジェルスのポール・ゲッティ・ミュージアムから学芸員の安否を気遣う連絡とともに支援の申し出があった。実はちょうどこの一年前にロスアンジェルスでも大きな地震があり、それを契機にゲッティ・ミュージアムでは作品への応急処置から被災者のメンタルケアまで盛り込まれた震災対策マニュアルを作成していた。加えてゲッティ・ミュージアムは専門家の派遣を打診し、実際に全国美術館会議を中心に文化庁や国立美術館の関係者によって2月3日に正式の救援隊が結成された折にはその中にゲッティの専門家3名が含まれていた。

 救援隊が美術館を訪れた日のことはよく覚えている。まだヘルメットなしでは館の中を移動できない状況であった。ゲッティの職員が携えていたマニュアルには驚いた。震災のみならず、美術館で想定される非常事態が列挙され、いかに対処すべきか詳細に書き込まれていたのだ。その中には作品が放射性物質で汚染された場合の対応まで記されており、私たちは現実にはこんなことはありえないだろうと笑っていた。まさか20年も経たないうちに原子力災害という人災によって私たち自身がそのような非常事態を経験することになるとは想像もつかなかった。もっとも専門家といっても彼らの指示自体はさほど特殊ではなかった。震災によってダメージを受けた作品(兵庫県立近代美術館に関しては建築の被害に比べるとごくわずかであった)に対する応急処置は私たちでも講じるような内容であったが、私たちはそれを伝えるためにわざわざ太平洋を横断して被災地に駆けつけてくれた彼らの連帯感に深い感動を覚えた。私たちが共有したのは学芸員にとって本能とも呼ぶべき、作品を守ることへの強い意志であっただろう。守るべき作品は美術館に収められているとは限らない。芦屋市立美術博物館と協力して、倒壊寸前であった写真家中山岩太のスタジオからガラス乾板を運び出す大規模なレスキューにも私の同僚たちが参加している。当時の写真が残されているが、余震が続く中、ヘルメットをかぶってのかなり危険な作業であったことがわかる。このような作業は日本中からボランティアとして参加した学芸員によって被災地全域で続けられていたはずだ。

全国美術館会議編 『阪神大震災美術館・博物館総合調査 報告書』 1996年

私たちは作品が美術館に安全に保管されていることを当たり前と思っている。しかし常に震災というリスクを抱えた日本ではそれは常識ではない。私は15年ほど前から全国美術館会議の機関誌の編集に携わっているが、そこに毎号寄せられるのは地震や水害、あるいは火山活動といった災害への対応を報告するレポートである。そういえば、この機関誌の発行も東日本大震災の直後であり、創刊号は奇しくも東日本大震災でのレスキュー活動を特集することになった。美術作品を災害から守ることは喫緊の課題であるが、日本の美術館にとってそれは平常の業務でもあるのだ。美術品はこのような努力の積み重ねを通して私たちの元に届いたのであり、私たちは同じ努力を重ねて次の世代へと引き渡していかねばならない。美術館に関わるというこことはかかる覚悟とともに日々を送ることでもあるのだ。

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