カテゴリーを壊す 2025.05.21
鳥取県立美術館が開館し、「アート・オブ・ザ・リアル」展が開幕して一月半あまりが経過した。幸いにも会場は多くの来場者でにぎわい、全国紙の文化欄やTVの美術番組でも好意的に取り上げられ、記念すべき開館記念展として一定の評価を受けつつあることに企画者としては安堵している。
前回のコラムに書いたとおり、江戸期から現代まで、国内外の様々なジャンルの名品によって構成された美術史の見取り図を、これまで本格的な美術館がなかった地域の方々に見ていただくことが開館記念展の最大の目標であった。多くの美術館や関係機関から全面的な協力をいただき、ほぼ門外不出であった作品、都市圏以外では展示されたことがないたくさんの名品を借用することができたことに深く感謝している。多くの来場者にとっては名前しか聞いたことがなかった作家の作品を初めて目にする得難い機会になったことと思う。ゴールデンウイーク明けまでに3万人近い入場者があり、展示もおおむね好評に受け容れられていることはこのような事情を背景にしているだろう。しかし私はよく知られた作家、名品の顔見世で事足れりとするつもりは初めからなかった。むしろそのような展示を超えた内容をこの展覧会に与えたいと考えた。具体的にはすでに歴史化された名品の中に現代美術の先鋭な作品を散りばめることによって来場者を挑発しようと試みたのである。ばら色の時代のピカソや岸田劉生の静物画であれば、誰もが抵抗なく受け容れるだろう。古賀春江のシュルレアリスム、伊藤若冲の奇想の系譜くらいまでは受け止めることができる。このような理解が揺らぐのは、《ブリロ・ボックス》をはじめとするポップ・アートのセクションのあたりからだろうか。なぜこれが芸術か。しかし来場者はこの展覧会で《ブリロ・ボックス》さえも穏当に感じられるさらに過激な作品に出会うこととなる。切れ込みの入った何も描かれていないカンヴァス、壁の一角に正方形を描いてぎっしりと突き刺さった画鋲、床の上に整然と並べられ、その上を歩くことさえ許された金属板。多くの来場者はなぜそれらが美術なのかと自問するはずだ。
ロック少年であった私は中学校二年の夏、ピンク・フロイドのアルバム、「原子心母」を聴いた時のことをよく覚えている。レコードに針を落とした瞬間、私は言葉を失った。それまで聴いたことのあるどんな音楽とも似ていないのだ。私はそれが音楽であるかさえ確信できなかった。一体これは音楽なのか。通常私たちは一つのカテゴリーに含まれていることをあらかじめの前提としたうえで作品に臨む。優れた絵画とか、つまらない映画とかといった判断はかかる前提に基づいて初めて可能となる。しかし振り返ってみるに私は人生の中で数回、それが含まれるはずのカテゴリーそのものを破壊するような作品に出会う体験があった。ピンク・フロイドの楽曲、寺山修司の「レミング」は明らかにこのような異物であり、フォークナーやプルーストの小説、キューブリックの映画もそのようなものではなかったか。カテゴリーの中で判定される作品はどんなに優れていても予測可能だ。私にとってはカテゴリーを壊すような作品の体験こそが自らの世界観を根底から変えるものであった。

「アート・オブ・ザ・リアル 会場風景」
今回の展覧会については、全般的な内容に関して広く報じられる一方で、内容に踏み込んだ展評や投書がほとんどない。《ブリロ・ボックス》を購入した際の騒ぎが嘘のようである。《ブリロ・ボックス》については価格というわかりやすい判断基準があった。しかし画鋲や金属プレートについて、おそらく多くの来場者は何を語ったらよいのかわからないのではないだろうか。もちろん私たちは展示を通してそれらの作品を美術史の文脈として紹介しようと努めた。しかしかかる文脈を直ちに理解していただけるとは考えていないし、逆に簡単に理解されては困る。私たちは今回の展覧会を通して美術というカテゴリーの広がりを示しつつ、同時にカテゴリーから逸脱する作品も展示の中に配置するという、かなりアクロバティックな実験を試みた。これまで本格的な美術館さえ存在しなかった地域において、これが相当にハードルの高い試みであることは承知している。しかし私はあえてかかる挑戦を開館記念展に期した。若い世代の感受性を信じているからだ。これが何かはわからなくてよい、しかし自分たちが見知った美術というカテゴリーを破壊する可能性が美術そのものの中に内在していると知ることは若い人たちにとって決定的に重要だ。それは私にとっての「原子心母」と同じ衝撃であろう。これが何かはわからない。しかし世界には自分たちが自明としていたカテゴリーを超えたなにものかが存在する。美術館とは本来的にそのような発見を保証する場であったはずだ。なぜなら私たちにとって、すべてがカテゴリーの中で整理される世界よりもカテゴリーを超えた何かわからないものが存在する世界の方がはるかに魅力的であるのだから。