第8回 パリはついてくる 2024.12.21
1921年、弱冠22歳のアーネスト・ヘミングウェイは新婦のハドリーとともにパリに渡る。1920年代のパリといえば美術はもちろん、文学や音楽、あらゆる分野における天才が集い、20世紀文化の一つの頂点をかたちづくっていた。ピカソやミロ、ジョイスにパウンド、あるいはストラヴィンスキー、綺羅星のような名前が躍る。
修業時代と呼ぶべきこの時期、ヘミングウェイは多くの芸術家と交流を続けながら、カフェで創作を続ける。秋も過ぎたある日、暖かいカフェでラム酒を飲みながら短編の執筆に没頭する幸せな回想が残されている。後年、ヘミングウェイはパリで暮らした6年の記憶をメモワールとして出版する。いうまでもない、このコラムのタイトルとして掲げた『移動祝祭日』であり、結果的にヘミングウェイの遺著となった。エピグラフに小説家は次のような文章を掲げている。
もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことが出来たなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
実際にはヘミングウェイが回想するパリでの生活、無名の文学青年として過ごした時代はかなり厳しいものであった。二人が暮らすアパルトマンにトイレはなく、夫婦は空腹を修業ととらえて、近くの公園を散策しては気を紛らわせていた。(近年の研究では、8歳年上のハドリーは資産家の娘であったから彼らはかなり裕福な生活を送ることもできたはずであるが、実際の生活は回想どおりつつましかったらしい)しかし異郷でのそのような日々も晩年に回想するならば「移動祝祭日」のように感じられたということであろう。
「移動祝祭日」とはヘミングウェイのお気に入りの言葉であり、ほかの小説の中にも登場する。原語は A Moveable Feast 、持ち運ぶことのできる饗宴という本義、そして日付が特定されず年によってカレンダーの中を移動する祭日というキリスト教用語の二つの意味があるという。パリをどこにでもついてくる移動祝祭日と表現する時、私はこれらの意味が絶妙に重ねられているように感じる。すなわちそれは一種の非日常的な祝祭の場であると同時に、一つの日付に固定されない自由な記憶の謂である。
私は美術館をめぐる記憶もまた「移動祝祭日」と呼べないかと考える。非日常の喜びであり、日付に固定されることなく、いつでも立ち戻ることができる幸福な記憶、それは美術館を訪れた体験と似ていないだろうか。例えば私は20年ほど昔にウィーンでフェルメールの《絵画芸術》を見た時のことを思い出す。
海外出張のたびにフェルメール詣でをしていた私にとってもこの体験はことに忘れがたい思い出となった。私はあらかじめ前日の夕方にウィーン美術史美術館を訪れ、作品の場所を確認したうえで、翌日の早朝、開館と同時に美術館に向かった。信じられないことにこの作品が展示された部屋には看視も含めて私のほかには誰もいなかった。私は30分近く作品の前に佇んでこの名画を独占した。17世紀に描かれた名画と一つの場所を、それもたった一人で共有すること。それは奇跡と呼ぶべき至福の体験であった。人生にはさまざまな瞬間があり、時に絶頂とも呼ぶべき瞬間がある。フェルメールとともに過ごした時間とは私にとってそのようなひとときであり、私は自分がこれまでこの瞬間のために人生を生きてきたようにさえ感じた。これこそ「移動祝祭日」の体験ではなかろうか。なぜならひとたびこのような体験をするならば、人はかかる幸福感をその後の人生の中で何度も反芻することが可能であるからだ。ヘミングウェイ風に言えば「その後の人生をどこで過ごそうとも、フェルメールはついてくる」。
もちろん《絵画芸術》は傑作中の傑作である。しかし忘れてならないのは、同じ体験は海外に行かずとも、そしていわゆる「傑作」を眼前にせずとも可能であることだ。私たちは行きつけの美術館でたまたま目にした絵画からも同様の深い感動を感受することがあることを経験的に知っている。真摯に制作された作品であればいかなる作品であっても、私たちが作品とともにある喜びを見出すことは可能であると私は信じる。美術館の中では、作品ではなく私たちが決定的に変化するのだ。そして美術館に通うならば、頻繁とはいえずとも、このような経験は決して稀ではない。それは自分だけの「移動祝祭日」にめぐり合えたということではないだろうか。
《絵画芸術》は
— Google アートプロジェクト, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22003845により引用