第17回 ルイ・ヴィトンでリヒターを 2025.09.21
最近、美術館を訪れて驚くのは高額の入場料だ。今日、人気のある展覧会や大規模な展示に足を運ぶと2000円台の入場料は珍しくない。私は美術評論家連盟のプレスカードをもっているので、大半の日本の美術館には無料で入ることができる。このためこれまで展覧会の入場料はあまりに気にならなかったのだが、その私でさえ近年の展覧会入場料の高騰は目に余る。私は昔から映画館にもよく通っていたから、なんとなく美術館の特別展と封切館の入場料はほぼ同じと思っていたのだが、最近の展覧会の入場料は明らかに映画館のそれを超えている。最近、若年層の美術館離れが指摘されているが、その理由の一つは明らかにここに起因しているはずだ。展覧会の入場料は若者には高すぎるし、インターネットを介して音楽や映画を無料で手に入れる彼らにとっては、そもそも対価を払って作品に接するという発想がないのだ。
この一方、近年、私たちは対価を払うことなく非常に質の高い作品に出会う機会を得ている。例えば大阪、心斎橋に所在する高級ブランドのビルの最上階には展示のためのスペースが設けられ、記憶する限りでも私はゲルハルト・リヒター、アルベルト・ジャコメッティの素晴らしい展示に立ち会い、今は草間彌生が展示されているはずだ。(偶然ではあるが、この三人は本館の開館記念展で展示した作家たちだ)ハイ・ブランドが美術、とりわけ現代美術の作家とコラボレートし、作品を展示することは今や珍しい話ではない。私が驚いたのはこれらの展示が無料で公開されていることだ。確かに入口は非常にわかりにくいし、応対するスタッフの立ち居振る舞いも洗練されているから、そこ足を踏み入れることへの心理的な障壁はかなり高い。しかしこれほどのレヴェルの展覧会が無料で人々に供されているという現実と公立美術館がそれなりに苦心して作り上げた展覧会に高い入場料が課されるという現実のギャップをどうとらえたらよいだろうか。
現代美術に関わることがハイ・ブランドにとって一つの流行となっていることは明らかだ。ブランド丸抱えで作家の大規模な個展を開いたり、プロジェクトを支援した例を私はいくつも知っている。このような状況を歓迎する一方で一抹の不安も拭えない。それはこれらの展示が顧客である富裕層の意識を反映しているからである。飯島洋一は今日の富裕層のメンタリティをあるギャラリストの言葉を引用して次のように描写している。「彼らにとって、安ものの作品で自宅の壁を飾ることなどありえない。高額のアートを買うことは、豪華なクルーザーを所有し、秘境の高級リゾートに出かけ、子供をスイスのボーディングスクールに通わせ、プラダやグッチを身にまとうことと同様に、ライフスタイルの一部であり、あるソーシャルキットに属するための必須アイテムなのだ」確かにリヒターにせよジャコメッティにせよ、作品が高額である点は共通し、富裕層の必須アイテムと呼ぶにふさわしい。少し意地悪な見方をすれば、これらの展示施設は富裕層の顧客のためのショールームのように感じられないだろうか。
かつて国王や貴族が収集した名画は富や権勢の象徴として、限られた人々にのみ公開された。ヨーロッパの大きな美術館はたいていこのような出自をもつが、市民革命を経て、美術品は市民に公開されることとなる。ルーブル美術館はフランス革命の直後に開館している。したがって私は全ての人に対して開かれ、無料で入場できることが美術館の本分であると考えている。むろん現在、日本のほとんどの美術館で入館料が徴収されていることには理由があるし、私もそれを否定するつもりはない。しかし最初に述べたとおり、無料で文化に触れることがデフォルトである若い人々にとって、今や展覧会の入場料は信じられないほどの高額となっている。これに対して、ハイ・ブランドが無料で質の高い展覧会を提供しているのは皮肉に感じられる。本来ならば公共の美術館が果たすべき役割を民間のラグジュアリー・ブランドが担っている訳だ。私はこれらのブランドの名を冠した本格的な美術館が別に存在し、優れた展覧会を企画していることを承知したうえで、大都市の一等地でひそやかに開かれるこれらの展示が多く文脈を欠いていることをあえて指摘しておきたい。私が富裕層のためのショールームと呼ぶゆえんだ。優品が並んでいるからよしとするか、それとも美術館のごときキューレーションを求めるか、これも難しい問題だ。さらに無料とは言いつつも、高級ブランドビルの最上階に設えられた空間は来場者を選ぶ。学生や低所得者、障がい者にとってそこは決してくつろげる空間ではないはずだ。私はこのような展示の在り方を否定するつもりはない。しかしそれが思いがけず与えられた恩寵であるか、格差社会を象徴する一つの現実であるかについては少し立ち止まって考えてみてもよいと思う。

