第18回 中之島でルイ・ヴィトンを 2025.10.21
「ルイ・ヴィトンでリヒターを」に続いて「中之島でルイ・ヴィトンを」、いうまでもなくカポーティの小説を踏まえたタイトルで韻を踏んでみた。何について書きたいかは容易に察していただけるだろう。先日まで大阪中之島美術館で開かれていた「ルイ・ヴィトン ヴィジョナリー・ジャーニー」展である。招待状からして趣が異なる。美術館の名前とロゴだけが印字されたスタイリッシュな厚手の封筒の中に、やはりピンクの厚紙に展覧会のタイトルと簡潔な招待の文言が記されている。それなりに工夫を凝らした内容が多い展覧会招待状の中でも圧倒的なゴージャスさが漂うところはさすがハイ・ブランドと関係した展覧会である。メッセージを届けたい相手がそもそも私のような美術ファンとは違うのだという点をあからさまにしている点はむしろ潔い。

長いエスカレーターを経て会場に入るとさらに驚く。エントランスにはこのブランドのバッグを組み合わせて配置した半球状の巨大なドームが築かれ、来場者はそれをくぐって入場する。展示されているオブジェ以前に展示方法が奇想に富み、驚かされる。それもそのはず、展示設計はレム・コールハースが率いるOMAのニューヨーク事務所代表の重松象平が手掛け、もはや会場自体が一つの作品だ。重松は(私は未見であるが)東京都現代美術館での「クリスチャン・ディオール 夢のクチュリエ」という展覧会の会場構成も手掛け、非常な評判を呼んだことも記憶に新しい。いずれもハイ・ブランドならではの贅沢な仕様で、学芸員ならずとも一体どのくらいの費用がかかったか気になるところであるし、通常の会場工作では考えられないような突貫工事で施工されたとも聞いている。
建築家が展示構成に関わることは決して珍しくはない。かつてクーリエの仕事でローマに赴いた際に、作品の配置を学芸員ではなく美術館専属の建築家が行っていることに驚いた経緯についてはこのコラムに記した。ずいぶん前になるが、日本でも東京都現代美術館で開かれたアンソニー・カロの個展の会場構成をカロの友人でもある安藤忠雄が手掛けたことがある。ペットボトルを用いた斬新な構成が印象に残り、空間を把握する能力における建築家の抜きん出た才能をあらためて実感する体験であった。あるいは東京国立近代美術館もしばしば会場構成を建築家に依頼することがあり、私が強く印象に残っているのは1972年に京都市美術館で開かれた「映像表現 ‘72」という展覧会を再現した2015年の「Re: play 1972/2015」という展示だ。この際には建築家の西澤徹夫が半世紀前の展示を別の会場で再現するという難題にみごとに応じていた。
ハイ・ブランドが主体となり、建築家によって会場構成が決定される展覧会をどのようにとらえるか。私は決して否定しない。ハイ・ブランドの文化戦略は洗練されているから展覧会としてのクオリティーは高いし、建築家による展示設計から学芸員が学ぶことは多いはずだ。美術品とハイ・ブランドの商品は高額である点において共通するから、美術館という場とは本来的に親和性があり、潤沢な予算を投じてハイ・ブランドの関連作品を一流建築家が設計した会場に展示するタイプの展覧会は、特に都市部の大美術館で今後流行することとなるだろう。美術館とは実験の場でもあるから、これもまた一つの実験である。前回触れた、高級ブランドが入居するビルの一角に設えられた空間における近現代美術の優品の展示と、美術館におけるブランドと関連した作品の展示とはちょうど一枚のコインの裏表ではないか。いずれの場においても展示されるのは富裕層のソーシャルキットであり、美術品に本来そのような一面があることは否定できない。
大阪中之島美術館を出て、向かいの国立国際美術館に向かう。同じ時期、「非常の常」という興味深い企画展が開かれていた。タイトルが暗示するとおり、展覧会のテーマは常態化した非常事態であり、8名の作家が出品していた。戦争や震災、そして疫病。私たちがベンヤミンの言う「例外状態」を生きていることは今や明らかであり、展示をとおして表現される炎上するリヴィングルーム、兵士と砂漠、廃墟や難民たちも私たちが直面する現実の一断面なのであり、それはルイ・ヴィトンの優美で安穏とした世界の対極にある。一方に豪奢な宝飾やオートクチュール、一方に有刺鉄線とスラム。わずか100メートルほどを隔てた美術館で開かれている二つの展覧会の落差はまさに私たちが生きる社会、分断され、共感不可能な二つの世界を象徴しているように思われた。まことに美術館とは世界を映し出す鏡なのだ。

